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橋本ゼミ インタビュー課題 2011年度前期

鈴木悠太

 


 

 

札幌市教育委員会

札幌市中央区北2条西2丁目STVビル4F

 インタビュー担当:鈴木・高畠

 

・はじめに

 私は札幌市教育委員会・学校教育部指導室、指導主事の出葉充氏にインタビューを行った。教育委員会は一律学校・幼稚園、奨学金・学費補助、障害のあるお子さんの教育、いじめ、教育についての取り組み・計画、情報モラル教育やケ―タイ・ネットトラブルなどについて活動をする。そのなかで出葉氏は行政的な役割としては指導担当係長で、教育上の役割として指導主事という肩書も持つ。インタビュー場所は指導担当課、指導担当室で話を受けた。この課のメンバーはほとんどが札幌市内の公立学校の教員という立場からきている。学校現場における教育課程や、児童生徒への指導であるとか、学校運営全般に関わる業務について各学校に指導・助言を行う。例えば、小学校の算数の授業についての助言、学校運営について助言を行い、さまざまな活動を分担して行っている。行事、保護者対応、学校管理など多岐にわたる活動をしている。出葉氏は生徒指導班の中で不登校問題、緊急な事件・事故、児童虐待に対して学校が対応を迫られているのでその対応に学校とともに対応し、強力・助言をする。学校における負の部分に対しての助言や対応である。その中で主に出葉氏はいじめについての調査を担当している。日常の仕事内容は日々変動するため、ライフサイクル的な仕事よりも、出張や、調査、対応といったことが多い。実際にインタビュー当日になって、時間の変更が急に行われ、もし間に合わない場合、他のものが担当するという手筈になった。

 

・相談件数について

 いじめに関わる相談件数は教育委員会では総数についてはカウントしていない。学校から対応・収集について相談、保護者からの相談がきて、学校・保護者とともに対応して解決していく。すぐに答えられることはできない。学校が対応に苦労する、保護者が学校の教育方針・担任の指導について納得がいかない。そのため泥沼状態になっているなどの例がある。状況の改善など、いじめについての学校運営についてなど要因が多岐にわたるため、いくつがいじめについて関わっているかわからない。実際に相談してきた事例を昔から紐解いていけばわかるがそういうことはしていないためすぐには答えられないということである。教育委員会という指導部署以外に少年相談室(いじめ相談室)ではいじめの相談をおこなう、西区のチエリアの相談担当では発達・発達障害の相談・日常の相談などそちらでも対応している。そのため、札幌市内でいじめの総数は相談がさまざまな場所で行われているため、カウントしていないのが現状である。

 テレビのニュースなどでいじめの認知件数が年推移で発表されるが、それは年に一回の文部科学省から来る児童生徒の問題行動等調査を年度初めに行い、そのカウントの統計で発表していることが多い。暴力、不登校、いじめについて学校に実態を聞き、学校が認知しているカウントを集めた集計結果である。

 文部科学省での調査では、小・中・高等学校における、暴力行為の発生件数は約六万件と三年連続で増加しており、小・中学校においては現在が過去最高件数に上る。

テレビは文部科学省調査に数字である。札幌市は政令市なので道教員のいじめに対する活動と動きは違う。また、市の数について、札幌市教育委員会は公にしていない。

 相談、認知件数、子供の思いの三種類がある。相談件数は札幌市教育委員会に相談がきた数を指す。認知件数は学校が一年間にいじめがいくつあったかをつかんだ数を指す。つまり、文部科学省の統計の数字のもととなっている数である。

子供の思いについて、札幌市教育委員会ではいじめの状況等に関する調査を毎年11月ごろに市内小・中・高等学校の札幌市立を担当。例えば旭丘、開成、藻岩、平岸など9校ほどある。公立は道職員が行うため札幌市教育委員会は携わっていない。児童生徒用調査用紙は、プライバシー保護のために、各家庭で記入し、添付の封筒に入れて学校に提出するよう配慮している。記名式アンケート式なので、このアンケートのコンセプトは把握しきれないかもしれない、つまり教員が発見できない、いじめられていると教師に言えないなど、いじめが潜在化しているケースの発見である。そういったいじめを早期に発見し、おおごとにならないうちに対応するのが目的である。もちろん年一回なので全てを洗い出すことはできないが潜在化しているいじめが一つや二つでも洗い出せればいいという考えである。いっせいにやるのは年に一回なので1月や2月以降のいじめを発見できないケースもある。それに対応するためにはアンケートや面談など学校個別に行うよう札幌市教育委員会は促している。またアンケートや面談だけでなく日々の担任の子供たちとのコミュニケーションや観察が一番だが、とにかく見出す努力は徹底的に行う。してくださいだけでなく教育委員会もイニシアティブをとって年に一回の活動を行う。それが子供の思いを調べる調査である。このアンケートは第一の質問に「あなたはいじめられていますか?」、第2問目に「思うと答えた人に聞きます。それはどんないじめですか?」、それ以降の質問は意識調査で、「見たことはありますか?」、「ネット上ではどうですか?」などいじめに対する意識調査である。

 いじめられている総数は小学校1年から高校3年まで減少傾向にある。実際に小学校で「思う」と答えた子供は10181人であるのに対して、中学校は1769人、高校は71人と激減している。「思わないが」小:中:高=77789391946116と総数的には違うが、「思う」に対しての相対的な高校の少なさ、小学校の多さは異なる。また相談件数と認知件数はこの数とは全く違う。それには理由がある。「あなたはいじめられていますか?」に対して、「はい」がなぜ小学校12年で多いかというと、友人間のトラブルがカテゴライズできない・概念分けできないためである。例えば、昨日○○ちゃんと口げんかした。昨日○○ちゃんに馬鹿って言われたなど、むっとくる経験や体験があると「あなたはいじめられていますか?」に対して「はい」と答える。「はい」に対して本当にいじめかを確認するのが小学校低学年には必要である。内容によってはいじめに対応していくシリアスな展開もある。だが、そのほとんどはいじめではなくて口げんかなどである。いじめって何ってことが、友人間のトラブルも含まれてしまう。よって、1~3年生のいじめの総数のうち本当はいじめられていない。口げんかが多い。ある大学の先生によると小学4年くらいからが、友人間のトラブルで確かにいじめだ。一定の力があるものが継続的に物理的・精神的なダメージを与え続けるのがいじめだとぼやっと認識する年代であると言っている。「思う」に対しての信憑性は小学校四年生くらいからあるが、小学校4年生以降。特に高校生は激減する傾向がある。この下がり方は逆に、記名式のアンケートに対してのハレーションを恐れる、思春期なので自分でなんとかする、関わってほしくないため「はい」と答えるケースが減ったためである。「はい」と書いたことによって、どうしたとつつかれる、書いたことによる飛び火で変な展開になるのを恐れるため、そういう風に数が減少する作用が働く。だがその少ないうちで出てきた「はい」に対しては信憑性があるといっていい。そのため、低学年の時はいじめ以外のケースが入るため膨大になる、高学年だと潜在化したいじめが出てこないケースがある。

 いじめられていたら誰にするか?という設問に対しては相談する割合がやはり小学校から高校にかけて年代が上がるにつれて減少している。子供のサインを早期発見する努力をするとともに、誰でも気軽に相談できる体制整備拡充を図ることが大切である。また相談する相手として、小学校辺りは「家族」、「友達」、「学校の先生」が多い割合を示しているが、学級が進むにつれて「先生」に相談する件数が減り、「友達」の割合が増える傾向がある。

 古いデータであるが、1986年の東京都教育委員会報告書によれば、いじめの原因として最も多いのが「力の弱い者、動作のにぶいものを面白半分に」が33.6%、そして「欲求不満の憂さ晴らしとして」が19.7%、「生意気なもの、いい子ぶるものに対する反発・反感から」が15.7%を示す結果となった。

 

・どういった流れで解決するのか

 おもに教育委員会では子供からの相談は少なく、学校や保護者からの相談が多い。いじめはいじめ電話相談にいく。あまりに深刻だと関連機関に連絡がいくのが基本である。例えば警察や、教育委員会・児童相談所などである。学校から教育委員会に連絡が来た場合は、学校側と協力して対応していくのがほとんどである。保護者からは名乗ってきた場合、波を立てたくないから匿名性でくるケースの二通りがある。匿名性の場合は、話した内容について、こうしたらいいのではないか、相手の親子と話はしたか、担任と話はしたか、担任が当てにならないなら総務の教師・校長・教頭などと対応していったらと言う。匿名性の場合はそれしかできない。名乗ってきた場合は管理職と情報共有しながら、解決に向けて対応していく。

 

・現在どのようないじめが多いか

悪口、仲間はずれ、無視、物理的暴力、持ち物隠しは年度が進んでもほとんど変わらない。悪口が最も多く、小学校、中学校、高校においてほぼ50%付近、またはそれ以上の値である。メールや掲示板での誹謗中傷はかつてそういう場がなかったがだんだんそれが普及してきて、年代も高校から中学、小学と幅は広がっている。王道をいくいじめよりは多くないが現在、増えてきている。また年代が上がるごとにメールなどによるいじめは増えている。「思う」と答えた人に聞きます。それはどんないじめですか?(複数回答可)に対して小学校は1%、中学校は5%、高校は10%と値が増えている。ここ34年でいじめの形態の変化はないらしい。だが出葉氏の感覚で行くと、暴力などより、持ち物隠し、どこかの壁に悪口を書くといった匿名制でのいじめは増えているかもしれない。メールなどのメディアの普及などでそういったケースは増えたが、むかしは女子の高学年が行う交換ノートや匿名手紙といった不穏な隠密文書などがある。実態が変化してきているというよりメディアが変化してきているケースがある。つまり交換ノートや手紙といった媒体がメールやチャット、サイトなどに変化してきているのである。

 

・現在のメールなどの環境に対しての対応策は確立されているか

 現在の対応は、日々いじめの形態が日進月歩である。行政や、学校現場の大人たちがそのいじめの形態について行くのが精一杯である。つまり追いかけっこ状態である。サイバー環境のいじめに対してはここ3年前から幅が膨大になっているため、業者に委託して、ネットパトロールをして学校裏サイトや、個人のプロフィール・ブログの類に他社への誹謗中傷や、個人情報の流布・服地犯罪に安易に入っていないかなどの調査をしている。精度はきめ細かいが、網の目状のため、全てを洗い出すことは不可能である。業者もサイバー環境の変化に合わせて毎度更新している。以前であれば、フィルタリングが甘い時代は色々なところに入っていって犯罪に巻き込まれるケースがあったが、もう建前上はフィルタリングがかかる時代なのでいじめだけでなく犯罪に巻き込まれる、書き込むケースは減った。最近では、ゲームサイト上などで、フィッシングが行われる。ゲームサイト上はフィルタリングがかからないため、その場での会話が犯罪被害に及ぶ、特定の人に対しての誹謗中傷が行われる。23年前と異なり、子供たちの集う場が変わってきているため、その追いかけっこである。

 

・今後の教育上での対応 

例えば、ネット上の個人情報の取り扱いなどが中学で学んでいるが、それが小学の範疇にはいるかという疑問がある。それにたいしては入れねばならぬという動きがあるが、完全に動けているとは言えない。警察や教育委員会や有識者が警鐘をならして中学からは遅いといっている。だんだんと小学からの携帯についてのマナーや個人情報についての学習は導入されている。大人の方が追いついていないのが現状。

小・中・高等学校すべてにおいて、半数以上の子供が「いじめはどんな理由があっても許されない」としているが、学年が進むにつれて、その割合は減少しており、そうしたお意識が浸透していない傾向がうかがえる。「わからない」、「原因があれば仕方がない」との回答がある現状を受け止め、そうした子供に対して「どんな理由があってもいじめは許されないこと」の意味が理解されるよう、個々の背景を十分ふまえつつ、教育活動の様々な機会をとらえて指導しながら、人権感覚を含む、心の教育を充実させていく必要がある。さらに、いじめを絶やすのに向けて、子供たち自身が「いじめを許さない」という気持ちを持つとともに、子供同士が互いに声に出し、行動に示していくなど、いじめを容認させない風土づくりを進めていくことが重要であり、教師には、道徳の時間をはじめ、学級活動や児童会・生徒会活動等を通じて子供たちにそうした気運を高めていく役割がある。いじめをゆるさない学校づくりとして1.学校体制の確立。2、教師の姿勢と学級運営の在り方の共通理解。3、子供一人ひとりを生かす教育活動の充実。4、学校と保護者や地域との連携。5、子供たちの自浄力の育成が必要である。

 

・教師の責任について

 出葉氏の見解では、いじめの多くが学校における人間関係の中でのいじめがおおいので、教師は未然防止・早期発見・早期対応の責任がある。だが子供社会において、人間関係の摩擦やトラブルはつきもので、多少はなくてはならないもののためである。だがそれが深刻で、本人の精神をむしばむといった状況にならないように対応しなくてはならない。実際に数が0になることはないが0にするためのなくす努力をし続ける、解決に向けて努力し続けるのは教育の立場としての責務である。学校でいじめが起きる、受け持っている子供が加害者になる被害者になる傍観者になるというさまざまなケースに、未然防止・早期発見・早期対応が必要となる。だが、子供の生活の1/3が学校生活だが、他の空間での生活もある。例えば学校以外での人間関係、習い事、地域の問題、家庭の問題、本人の問題、いろいろな背景がある。それが軋轢となって人間関係に摩擦が起きたりするため、学校でできる範囲はカバーしなければいけないが、それ以外も存在する。それも全て学校や教師の責任とするのは難しい状況。現在もいじめの空間の幅は広がっているため全てを教師の責任とするのは難しい。

 

・いじめている側、見ている側からの相談は

 多いとはいえないがある。いじめ相談室にはそういった相談もあるとい聞いている。教育委員会としてはいじめられている子の立場に立って、その子の心や体の負担を解決したい。そのために、いじめの実態をつかんで解決する。

 数年前から、文部科学省は「いじめとはなにかについて」、いじめられている子の気持ちを大事にする。平成19年度からの調査上の「いじめのとらえ方」に対して、『本調査において、個々の行為が「いじめ」に当たるか否かの判断は、表面的・形式的に行くことなく、いじめられた児童生徒の立場に立って行うものとする。「いじめ」とは、「当該児童生徒が、一定の人間関係のあるものから、心理的・物理的な攻撃をうけたことにより、精神的な苦痛を感じているもの。とする。なお、起こった場所は学校の内外を問わない。(注1)「いじめられた生徒の立場に立って」とはいじめられたとする児童生徒の気持ちを重視するということ』。これがいじめのとらえられ方に関しての見解である。それが客観的に見て、いじめられているケース。とんでもないことを言って怒りを買って、怒りを浴びているケース。それがいじめというのは、怒っている方もかわいそうとう、にくたらしく思うよなっていう現実もある。そういうことを客観的に見定めて、原因を作ったその子を救わなくていいのか。実際に精神的にまいって学校にも行けない。そこに追い打ちをかけるように、おまえが悪いと言っても救えない。周りの子も含めた改善、その子にも自分が悪いということも後々に客観視してわかってもらいたい。この子の立場に立って状況を見定めなければならない。

 いじめは、小グループ、学級、部活動などの中で行われるため、いじめられる子供といじめる子供の当事者間から他の児童生徒を巻き込み集団化していくことが多い。当事者の周囲の周囲には、「観衆(おもしろがり、はやしたてる者)」、「傍観者(見て見ぬふりをするもの)」「仲裁者(やめさせようとするもの)」となる層になる子供たちがいる。いじめる子供や観衆が多いと、一層エスカレートし、沈静化は困難となる。傍観者がいじめを支持しない言動をすればいじめに対する強力な抑止力となり、逆にいじめを黙認すれば仲裁者を孤立させ無力化してしまう。実際にいじめられている立場の子供からすると、観衆や傍観者もいじめている子供と同じ立場に見えてしまうことがあるらしい。いじめ集団の構造は、固定化されたものではなく、誰でも「いじめられる側」、「いじめる側」になりえる可能性があり、それが集団の中にいじめられる側へと陥るという不安感情を募らせ、誰もが口を閉ざす雰囲気が集団内に醸成される。

いじめている・いじめられているとう単純な図式で表すこともできないケースもある。周りでそれを阻止できる状況をつくっているかが最もとても重要。つまり、「そんなことをしたらいけない・そんなことを言うのはいけない」という風土・空気がある集団だったら、悪化しない。周りが触らぬものに祟りなし・面倒に近寄りたくない・火の粉がかかるのは嫌という考えから傍観者になる人がいる・無関心がいる。そういった集団の状況をよくみていかなくてはいけない。いじめを阻止できない。図らずも部分的に関わる、自分かわいさに関わる。危険が及ばないとう考えを見定めて対応していくことが重要。そういった環境をつくっていくために、教育現場において、生活ノート、道徳の時間、ホームルーム、面談、観察など様々な方法によって生徒の精神的な発達を教育委員会の方からも促している。

 

・やりがいについて

 いじめに対して調査、未然防止・早期発見・早期対応、学校からの相談に対しての助言や対応などの仕事は、出葉氏は、身も蓋もない言い方をするとなかなかやりがいというものは感じられないらしい。というのは、出葉氏は数年前まで小学校教員だった。教員の時代、いじめを認知・関わりをもつとうまくいかないとき、うまくいくときもあるが手ごたえはある。つまり子供が身近にいる環境下で対応ができ、反応も返ってくる。全国の小さな一つの事例だが、自分が関わって子供に笑顔が戻った解決できたと実感はある。だが今の仕事は調査などによって集めた数に子供の顔色や笑顔は見えてこない。ただ、こうやったり数をまとめたりして、情報を発信したり、学校側への助言は、教員時代の体験が一つ一つ事例に生かされているのだと信じてやるだけと思いたい。ときどき保護者から子供に笑顔がもどったという報告があり、それはとてもうれしい。めったに親からお礼の連絡は来ないらしい。子供たちの関係が回復したら学校や保護者内で喜んで終わってしまうためである。笑顔で通っていると相談を受けた学校から報告があれば、よたったなと思う。子供が身近にいなくて実感ややりがいはわかないが、小学校時代の体験が今に生かされていると信じ、感謝の連絡に喜びを感じて頑張るつらい仕事だということである。